オコチャンワ! ジェミです!
不定期にジェミがとりとめもない話を書いていくこのコーナー。
今回が第1回でございます。
独り言のようなものなので、文章中心のコーナーです。
主に私の主観で話していきます。
千差万別、いろいろな意見があるとは思いますが……。
討論したいわけでも、非難して何かを変えたいわけでもありません。
ただの独り言として処理していただければ幸いです。
加えて、思ったことをつらつら書きますゆえ。
楽しい話にのみフォーカスしているわけではありません。
そのような記事を求めていない方々がいらっしゃいましたら……。
独り言コーナーの閲覧は自己責任でお願い致します。
m(_ _)m
◇
というわけで始めることになりました。
別に深い意味はなく、いつものイベントの延長線上のものです。
少し前に、絶コンテンツに対して思うところを書きましたが……。
スタンスはあのような形になっていくと思います(∩'ω')∩
◇
絶コンテンツ、続くものが開発中だそうですね。
クリアされたら新しい楽しみを提供する。
運営としてのその方針は素晴らしいものがあると思います。
私が思う争点は、どちらかというとその大元方針ではなく。
根本的な考え方に、やはり差異があるんだなと感じるところです。
そしてその差異はどうして発生してしまうのか。
少し考えていきたいと思います。
◇
絶コンテンツは数パーセントの層に対するもの……。
それならば、残りのパーセントの層。
それに対し、同様のサポートを提供すべきではないでしょうか?
そのような個人意見を、私は以前つらつらと書いたことがあります。
勿論、絶コンテンツを、私はなんら批判をしません。
エオルゼアを構成するモノの必須ファクターの一つである。
そうも認識しています。
争点は、運営が認識している必須の提供コンテンツ。
その方向性の思考が凝り固まってしまっているのではないか。
そう強く感じるのです。
◇
何のためにFF14という世界媒体にアクセスし、ゲームをするのか。
そこには千差万別、様々な考えや理由が存在します。
より強い敵と戦いたい。
自分の力を誇示したい。
別の自分になりたい。
他者と交流したい。
沢山のプレイヤーが居る上で、それは幾千幾万と存在するでしょう。
そこには一つも正答の解はなく、また間違った烙印も存在しません。
何故なら、エオルゼアという世界媒体は……。
それら総てのファクターを内包して初めて成立するからです。
現実社会と同じです。
様々な行動、思考が織り交ざって一つの機関を動かしています。
逆に言うと一つの世界媒体。
それは、アクセスしているファクター総てにより「生かされて」います。
何かの歯車が狂い、動作不良を起こせばその社会は崩壊します。
精密機械にも言えることですし、人間関係にも言えることです。
◇
私が思う問題。
詰まるところそれは、その崩壊の危険性がすぐ近くにあるのではないか。
そう感じることなのです。
具体的に考えてみましょう。
絶コンテンツが存在すること。
それは必須の要素です。
事実、様々な方法で楽しんでいるプレイヤーは存在しています。
その内容方法について論じるつもりはありませんが、事実ですね。
では、絶コンテンツを主目的としないプレイヤーに対し。
運営が目を向けているのだろうか。
そこに私は個人的な疑問があります。
この場合、最も恐ろしい思考の流れが存在します。
「運営が用意したコンテンツを楽しむ努力をしなければならない」
という考え方です。
◇
それは大きな間違いです。
何故ならば、先にも述べたとおりに……。
一つの社会を構成する要素は千差万別、いろいろあります。
そして社会では、そのファクターがそれぞれ別のベクトルを向いています。
つまり、個々の求める所は一つ一つ違うのが当たり前なのです。
そこに思想的な絶対案件を崇拝すること、それをまわりに強制する。
つまりその行為は思想であれ行動であれ、一種の言論統制に近いです。
「しなければならない」
「するのが当たり前」
「しなければ敵である」
そのような考え方は、社会を崩壊させる危険思想です。
一つの世界媒体にアクセスしている全員には、平等に自由があります。
思想そのものを隠れ蓑にし、他者に正義感を押し付けること。
そこに自意識はなく、存在しているのは無責任な悪意のみです。
◇
何を言いたいのかといいますと……。
絶コンテンツを例に取りますと、良いところもあれば悪いところもあります。
その両方の事実認識が存在して、はじめてエオルゼアは成り立つ。
上記の事実を、一人一人が自覚する必要がある、ということです。
勿論プレイヤーだけではなく、運営もそれに強く当てはまります。
私が疑問を抱いているのは……。
運営側の思考方針が
「提供コンテンツは、ユーザーが楽しもうと努力するものだ」
という、大きく歪んだものになっているのではないか……。
そう感じることに起因します。
それは猛烈な間違いです。
私達ユーザーは、接続料を支払い、サービスの提供を受けています。
例えばコーヒー喫茶に入ったとします。
加糖コーヒーが好きなのに、いざ注文して席につくと、砂糖がない。
店員に聞くと、この店の運営方針はブラックを楽しんでいただくことです。
そう言われたとしましょう。
この場合の運営からの絶推しは、上記の状況に似ています。
何が問題なのか。
ブラックコーヒーしかない、それはノープロブレムです。
運営方針を作るのも正しいことです。
それにより、ブラックコーヒー好きな客層からは支持を得ることができます。
この場合問題なのは、店側がその行為を正義だと思ってしまうことです。
ブラックコーヒーを出すことが、店の中では正しいこと。
それ以外は客ではない。
そのような認識は大変危険です。
何故ならば、それはルールの押し付けに当たるからです。
社会を構成しているのは、ひとつの勢力ではなく、ファクターそれぞれです。
加糖コーヒーが好きな客はどうでしょうか。
そう言われたら、二度とそのお店にはコーヒーを飲みに行かないでしょう。
それを見たブラックコーヒーユーザーは、あたかもその層が仲間ではない……。
という考えに至ってしまうこともあるかもしれません。
しかし、お店の発展という点を考えれば、砂糖もまた一つの必要な要素です。
無視しては、発展もなかなか望みづらいのではないか、と感じます。
◇
話を戻しましょう。
「提供コンテンツは、ユーザーが楽しもうと努力するものだ」
果たしてそうでしょうか?
そもそもコンテンツとは、何のために存在しているのでしょう。
ユーザーが楽しむためです。
様々なファクターが満足感を得るためです。
努力して楽しもうとすることでは、決してありません。
目を向けたくなければ向けなくてもいいですし……。
何より、ユーザーにはその選択権があります。
この場合に出されるべき正答解。
それは
「ユーザーが楽しいと思うコンテンツを提供しなければならない」
ということではないでしょうか。
一つだけでそれは達成できません。
大きな要素ではなくてもいい、細かいところでもいい。
しかし千差万別様々なベクトルを向いている意思。
ひとつひとつに、なるべく満足感を与えようとすること。
それが、運営の正しい在り方ではないでしょうか。
◇
比較しているわけではありませんが……。
同じスクウェア・エニックス社のMMORPG、ドラゴンクエスト10。
そちらで先日、このようなことがありました。
大型アップデートで、ディスク4が発売される前日。
ユーザーが使用している公式サイトに、一つの記事が投稿されました。
それは、その日に行われる
「バージョン3お疲れ様会」
としての意味を持ったプレイヤーイベントの紹介記事でした。
私はそれを見た時に、かなりの衝撃を受けました。
一方通行の提供ではなく、そこにはレスポンスが存在していました。
言葉、意思のやり取りです。
勿論コンテンツ攻略を主目的にしているプレイヤー。
そこからすると、プレイヤーイベント情報はいらないものです。
しかし、ドラクエ10運営は情報を大々的に紹介しました。
大きな行為ではありません。
とても小さなことです。
ですが、それだけでプレイヤーイベント主体勢は、満たされるものがあり。
活力に大きく繋がり、更に発展させていこうという方向に意識が向きます。
◇
この場合のドラクエ10運営の思考。
それはおそらく
「ユーザーが楽しんでいるものをフォローする」
ということだったと思います。
決して、一方通行的なコンテンツの提供のみで終わってはいません。
そのようなものがあってはじめて、幸福感や充足感が付随します。
やがてそれが心を定着させる要素になるのではないでしょうか。
◇
先にも書きましたが、以上のような理由で……。
私は
「運営が用意したコンテンツは楽しまなければいけない」
という考え方には賛同し難いところがあります。
そのような理由で、違和感を感じているのかもしれませんね。
◇
とりとめのない話でしたが、第1回はこれくらいで。
不定期投稿ですが、次回も漠然と思う所を書いていきます。
m(_ _)m
★
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