Google+ FFあんてな: ジェミコラム 第1回

2017年11月22日水曜日

ジェミコラム 第1回

オコチャンワ! ジェミです!

不定期にジェミがとりとめもない話を書いていくこのコーナー。
今回が第1回でございます。

独り言のようなものなので、文章中心のコーナーです。
主に私の主観で話していきます。
千差万別、いろいろな意見があるとは思いますが……。
討論したいわけでも、非難して何かを変えたいわけでもありません。

ただの独り言として処理していただければ幸いです。
加えて、思ったことをつらつら書きますゆえ。
楽しい話にのみフォーカスしているわけではありません。

そのような記事を求めていない方々がいらっしゃいましたら……。
独り言コーナーの閲覧は自己責任でお願い致します。

m(_ _)m



というわけで始めることになりました。
別に深い意味はなく、いつものイベントの延長線上のものです。

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少し前に、絶コンテンツに対して思うところを書きましたが……。
スタンスはあのような形になっていくと思います(∩'ω')∩



絶コンテンツ、続くものが開発中だそうですね。
クリアされたら新しい楽しみを提供する。
運営としてのその方針は素晴らしいものがあると思います。

私が思う争点は、どちらかというとその大元方針ではなく。
根本的な考え方に、やはり差異があるんだなと感じるところです。
そしてその差異はどうして発生してしまうのか。
少し考えていきたいと思います。



絶コンテンツは数パーセントの層に対するもの……。
それならば、残りのパーセントの層。
それに対し、同様のサポートを提供すべきではないでしょうか?

そのような個人意見を、私は以前つらつらと書いたことがあります。

勿論、絶コンテンツを、私はなんら批判をしません。
エオルゼアを構成するモノの必須ファクターの一つである。
そうも認識しています。

争点は、運営が認識している必須の提供コンテンツ。
その方向性の思考が凝り固まってしまっているのではないか。
そう強く感じるのです。



何のためにFF14という世界媒体にアクセスし、ゲームをするのか。
そこには千差万別、様々な考えや理由が存在します。

より強い敵と戦いたい。
自分の力を誇示したい。
別の自分になりたい。
他者と交流したい。

沢山のプレイヤーが居る上で、それは幾千幾万と存在するでしょう。
そこには一つも正答の解はなく、また間違った烙印も存在しません。

何故なら、エオルゼアという世界媒体は……。
それら総てのファクターを内包して初めて成立するからです。
現実社会と同じです。
様々な行動、思考が織り交ざって一つの機関を動かしています。

逆に言うと一つの世界媒体。
それは、アクセスしているファクター総てにより「生かされて」います。
何かの歯車が狂い、動作不良を起こせばその社会は崩壊します。
精密機械にも言えることですし、人間関係にも言えることです。



私が思う問題。
詰まるところそれは、その崩壊の危険性がすぐ近くにあるのではないか。
そう感じることなのです。

具体的に考えてみましょう。

絶コンテンツが存在すること。
それは必須の要素です。
事実、様々な方法で楽しんでいるプレイヤーは存在しています。
その内容方法について論じるつもりはありませんが、事実ですね。

では、絶コンテンツを主目的としないプレイヤーに対し。
運営が目を向けているのだろうか。
そこに私は個人的な疑問があります。

この場合、最も恐ろしい思考の流れが存在します。
「運営が用意したコンテンツを楽しむ努力をしなければならない」
という考え方です。



それは大きな間違いです。
何故ならば、先にも述べたとおりに……。
一つの社会を構成する要素は千差万別、いろいろあります。

そして社会では、そのファクターがそれぞれ別のベクトルを向いています。
つまり、個々の求める所は一つ一つ違うのが当たり前なのです。

そこに思想的な絶対案件を崇拝すること、それをまわりに強制する。
つまりその行為は思想であれ行動であれ、一種の言論統制に近いです。

「しなければならない」
「するのが当たり前」
「しなければ敵である」

そのような考え方は、社会を崩壊させる危険思想です。
一つの世界媒体にアクセスしている全員には、平等に自由があります。
思想そのものを隠れ蓑にし、他者に正義感を押し付けること。
そこに自意識はなく、存在しているのは無責任な悪意のみです。



何を言いたいのかといいますと……。
絶コンテンツを例に取りますと、良いところもあれば悪いところもあります。
その両方の事実認識が存在して、はじめてエオルゼアは成り立つ。
上記の事実を、一人一人が自覚する必要がある、ということです。

勿論プレイヤーだけではなく、運営もそれに強く当てはまります。

私が疑問を抱いているのは……。
運営側の思考方針が

「提供コンテンツは、ユーザーが楽しもうと努力するものだ」

という、大きく歪んだものになっているのではないか……。
そう感じることに起因します。

それは猛烈な間違いです。
私達ユーザーは、接続料を支払い、サービスの提供を受けています。

例えばコーヒー喫茶に入ったとします。
加糖コーヒーが好きなのに、いざ注文して席につくと、砂糖がない。
店員に聞くと、この店の運営方針はブラックを楽しんでいただくことです。
そう言われたとしましょう。

この場合の運営からの絶推しは、上記の状況に似ています。
何が問題なのか。
ブラックコーヒーしかない、それはノープロブレムです。
運営方針を作るのも正しいことです。
それにより、ブラックコーヒー好きな客層からは支持を得ることができます。

この場合問題なのは、店側がその行為を正義だと思ってしまうことです。
ブラックコーヒーを出すことが、店の中では正しいこと。
それ以外は客ではない。

そのような認識は大変危険です。

何故ならば、それはルールの押し付けに当たるからです。
社会を構成しているのは、ひとつの勢力ではなく、ファクターそれぞれです。

加糖コーヒーが好きな客はどうでしょうか。
そう言われたら、二度とそのお店にはコーヒーを飲みに行かないでしょう。

それを見たブラックコーヒーユーザーは、あたかもその層が仲間ではない……。
という考えに至ってしまうこともあるかもしれません。

しかし、お店の発展という点を考えれば、砂糖もまた一つの必要な要素です。
無視しては、発展もなかなか望みづらいのではないか、と感じます。



話を戻しましょう。

「提供コンテンツは、ユーザーが楽しもうと努力するものだ」

果たしてそうでしょうか?
そもそもコンテンツとは、何のために存在しているのでしょう。

ユーザーが楽しむためです。
様々なファクターが満足感を得るためです。

努力して楽しもうとすることでは、決してありません。
目を向けたくなければ向けなくてもいいですし……。
何より、ユーザーにはその選択権があります。

この場合に出されるべき正答解。
それは

「ユーザーが楽しいと思うコンテンツを提供しなければならない」

ということではないでしょうか。

一つだけでそれは達成できません。
大きな要素ではなくてもいい、細かいところでもいい。
しかし千差万別様々なベクトルを向いている意思。
ひとつひとつに、なるべく満足感を与えようとすること。

それが、運営の正しい在り方ではないでしょうか。



比較しているわけではありませんが……。
同じスクウェア・エニックス社のMMORPG、ドラゴンクエスト10。
そちらで先日、このようなことがありました。

大型アップデートで、ディスク4が発売される前日。
ユーザーが使用している公式サイトに、一つの記事が投稿されました。

それは、その日に行われる
「バージョン3お疲れ様会」
としての意味を持ったプレイヤーイベントの紹介記事でした。

私はそれを見た時に、かなりの衝撃を受けました。

一方通行の提供ではなく、そこにはレスポンスが存在していました。
言葉、意思のやり取りです。

勿論コンテンツ攻略を主目的にしているプレイヤー。
そこからすると、プレイヤーイベント情報はいらないものです。

しかし、ドラクエ10運営は情報を大々的に紹介しました。
大きな行為ではありません。
とても小さなことです。

ですが、それだけでプレイヤーイベント主体勢は、満たされるものがあり。
活力に大きく繋がり、更に発展させていこうという方向に意識が向きます。



この場合のドラクエ10運営の思考。
それはおそらく

「ユーザーが楽しんでいるものをフォローする」

ということだったと思います。
決して、一方通行的なコンテンツの提供のみで終わってはいません。

そのようなものがあってはじめて、幸福感や充足感が付随します。
やがてそれが心を定着させる要素になるのではないでしょうか。



先にも書きましたが、以上のような理由で……。
私は

「運営が用意したコンテンツは楽しまなければいけない」

という考え方には賛同し難いところがあります。
そのような理由で、違和感を感じているのかもしれませんね。



とりとめのない話でしたが、第1回はこれくらいで。
不定期投稿ですが、次回も漠然と思う所を書いていきます。

m(_ _)m



 



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